ずいぶん間が空いてしまった。久しぶりの更新だなあ(しみじみ)。まあ不定期と宣言してあるから問題はないはずで・・・というより、ここ読んでくれている人いるのかしらという問題が先かと思料される(が、まあいいや)。今回は、前から思っていることを文章化する(現在海外在住で、なかなか話題が見つからないのでござる)。
今年も猛暑である。特に初等中等教育機関に通う児童生徒にとって、おそらく夏休みは読書感想文を書く時期と思われているのだろう。私の時も夏休みの宿題には必ずと言ってよいほど読書感想文があった(なぜか原稿用紙3枚)。ちなみに、冬休みの宿題は書初めであった(私は書道が苦手だったので苦労した)。しかし、大人になってみると、読書感想文が好きだ(った)と言う人に会うことは滅多にないのではないだろうか。なぜか?つまらないからである(即答)。では、なぜ感想文はつまらないのだろうか?
1、何を書けばいいのかわからない。(そもそも書き方を教わっていない)
2、書いたとしても、先生が見て添削したり講評を書いてくれたりしない。(評価を与えてもらえない)
3、結局、出したら書いた内容などさっぱり忘れてそのまま。(フィードバックがない)
4、なんだか胡散臭い。(思想統制ではいかという疑いがある)
最初に明確にしておくが、私の立場は「教科としての国語は飽くまで技能教科である」というものである。(ただし、私の今の仕事は国語教育とは関係がない)。かつて高校で教育実習(国語科)を受けた際、私の指導教諭はいみじくも「国語は道徳教科である。国語以外に高校で人生を教えられる教科はない」とおっしゃった。当時は「なるほど、そういうものか」と思ったものだが、今の私はそのような考え方に対して全く正反対の立場である。そもそも、人生の勉強というものがあるのなら、それは本来自分でするものであろう。当局(文部科学省)の厳格な管轄下にある各種学校で教わるものではないだろうし、教えきれるものでもないはずである。
最近の高校は私服が多いようだが、きわめて歓迎すべき傾向だと思う。私が中高生だった頃は、学生服の下に白のワイシャツを着ているかどうか、襟のカラーがあるかどうかなどという抜き打ち検査が時々実施された。私はよい子アピールをするべくいつも抜け目なくどちらもきちんと身に着けており、違反者が大勢の先生に囲まれて説教を受けるのを見ながら要領の悪いやつらめと思っていたものである。
しかしながら、それらをよく考えてみると、どうして学校で身だしなみや持ち物検査などをしなければならないのか、きわめて疑わしいことに思い至る。本来、学校は勉学を身に付ける場のはずである。もちろん社会の一般常識を得たり、集団活動を体験する場でもあるだろう。しかし、髪の色や制服の襟がどうこうなどという指導に一体何の意味があるのか?リクルートスーツのような悪弊と同じであって、入社後はそんなスーツには誰も袖を通さなくなるのと同じである。結局、いわゆる「生活指導」とは管理教育側の言い分なのである。指導側は、児童生徒側が言うことを聞くようにしたいだけであり、都合よく管理しておきたいだけなのだ。仮に児童生徒側のことを考えるなら、好きな髪形で着たいシャツを着せておいた方がいいに決まっている。お仕着せよりもどれほど自由で創造的な気分になれるかわからない(ただし中には制服を着たい者もいるだろうから、自由選択性が最もよいだろう)。
問題は、学校が「しつけ」教育の場だと思っている親や社会の存在である。本当に「しつけ」をしたいなら、古い例えで申し訳ないが戸塚ヨットスクールのような有料の場が探せばいくらでもあるのだから、そういう所に行かせればよいのであって、その役割を公教育の場に押し付けようというのだからおかしいのである。そもそも最も身近な存在であるはずの保護者が家庭においてすらできないような「しつけ」を、何百人と児童生徒を抱えている学校でできるはずがないのは当然である。私の元指導教諭のように、学校の国語科の授業で人生が教えられるという考えは、(本人の考えはどうあれ、この文脈においては)「しつけ」をするという意味で生活指導と根が同じである。学校でそんなことはそもそもできっこないし、やるべきでもないのである。学校は、児童生徒に対する生活態度の指導を求める地域社会や保護者に対し、堂々と「そんなものは知らねえ」「私たちは生活態度ではなく勉強を教えるのです」と主張すべきである。地域社会(やひいては教育委員会)における任務校の評判を気にしている校長先生がいることも理解できるが、旧弊墨守で時代遅れであるとしか言えない。学校は学校関係者が変えていくしかないのである。
また、いわゆる「道徳」については、現在の義務教育の道徳科で扱っている。大学の教職科目で「道徳科教育論」を履修した際に唖然としてしまったが、道徳科の理論体系には相当無理があると言わざるを得ない。規定では道徳科は評価をせず成績も付けないとなっているが、しないのではなくもちろんできないのである。価値観が深まったとか深まらなかったなどと判断し点数化することなど不可能だからである(しかしそれにも拘わらず、実はその「深化」へと静かに導くことが道徳科の目的であるところに矛盾がある)。道徳科は、戦前戦中の修身の授業とは違うというのが常に強調される建前であるが、人の心の動きまで義務教育で扱おうという発想自体が修身そのものと何の変わりもない。
前書きが長くなってしまったが、ここまでに言いたかったことは、
①学校は生活指導をするところではない
②道徳は道徳科で曲りなりにも教えており、それ以上のことは家庭でやるべき
(学校では時間や人手が足りないから指導をしないのではなく、勉学をする学校に「しつけ」を求めること自体がそもそも筋違い)という2点である。
さきほど、私の立場は「教科としての国語は飽くまで技能教科である」と書いたが、道徳教科ではない技能教科としての国語科では何を教えるのか。それは、
1、読解
2、作文
3、聴解・会話
4、口頭発表
5、文学、文学史
6、文法知識
である。1と2は文字言語、3と4は音声言語の運用技能である。3は日本語を母語としない者には必須であろう。母語話者(およびその水準の者)に対しては、高度な内容を聞いて内容を整理できる能力として育成することが可能である。4は最近よくやられているようである。5と6は技能というより知識であるが、言語芸術としての文学と、日本語文法の知識は教養として求められる。
ここで強調しておきたいのは、国語科では飽くまでも1~4がメインであるべきだということである。これまでの国語教育は、1の読解が中心であり、しかもその題材は5の文学であった。しかし、読解と文学鑑賞は混同しないようにするべきである。諸外国のように、「日本語」(論説文、日本語文法)と「日本文学」(文学鑑賞、文学史)というように教科書をふたつに分ける方がよい。つまり、論理的な文章と芸術的な文章をきちんと区別するのである。後述するが、これらが全てごちゃごちゃであることが、結局のところ読書感想文のよくわからない位置づけに結びついているのである。
以下次号(←1回書いてみたかった)
2008年8月2日土曜日
読書感想文を憂う
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また来いよ。じゃあな。