アニメ『となりのトトロ』(スタジオジブリ、1988年)を娘と一緒によく見ている。あまりにも有名なので、あえてタイトルをレビューとはしなかった。ところで、トトロについて書きたくなったのは、ネット上のトトロ論をいろいろ見て少し違和感を感じたからである。なぜか、ネットではメイやお母さんが死んでいるといった解釈が多い気がする。エンドロールの絵も含めた細かな点から、そうした話に強引に結び付ける議論には賛成しかねる。メイの溺死疑惑はあるものの、この作品がお母さんが既に死んでいたとかお父さんの回想にすぎないといった話であるとは、私にはとても思えないからである。そもそもトトロの存在自体が夢か現か結局わからないという点にこそ、この作品の面白さがあると考える。
作品冒頭、車から降りたメイと五月は橋を渡って坂を駆け上がるが、そこは五月が言うように「木のトンネル」であった。 また、家の中で見つけた二階への階段もまた暗い通り道であった。こうした通路に関しては、『耳をすませば』の図書館裏から丘の上に続く細い道や、『千と千尋の神隠し』冒頭で車を降りて徒歩で入る狭いトンネル等が想起される。これらの細くて暗い道は、異界への入り口としての機能を十分に備えているのだと言え、物語の始まりにふさわしい。
こうした通路として作品内で最も特徴的なものは、メイが小トトロと中トトロを追いかけて入る茂みであろう。 この茂みの奥には文字通り長い「木のトンネル」があり、これを通り抜けることでメイは大トトロの住処に辿り着くことになる。トトロと会って寝てしまったメイは、木のトンネルの奥の空間で五月やお父さんに発見される。メイは再度トンネルを通ってトトロの住処に行こうとするが、今度は行けず、五月やお父さんにトトロの存在を証明できない。
この後、メイは森の主に会ったのだとするお父さんの提案で3人は塚森に行き、ご神木に挨拶をして帰るが、この時メイの麦わら帽子が一瞬落ちる場面がある。トトロに会えた際、メイは帽子を茂みの入り口に落としていたことと、五月に発見された後に再度木のトンネルを行き来して通路を探した時には帽子をかぶっていたことを考え合わせると、メイの帽子の有無はここでいわば「森へのパスポート」として機能していると言える。そう考えると、塚森でメイが帽子を落としたことはそれなりに象徴的であり、メイの記憶のとおり塚森がトトロの住処であるらしいことが、アニメの鑑賞者に対して静かに示されたのだと考えることができよう。もちろんこれはあくまで物語世界外の仕掛けであり、物語世界内の五月やお父さんにまでそれが示されたわけではない。
ネットのトトロ論ではトトロは母性的であるとか逆に父性的であるとか様々に言われているが、私に言わせればトトロはお父さんの「影」である。メイは大トトロに初めて会った際に馬乗りになってトトロを起こしているが、この日の朝、メイは布団に飛び乗って寝ているお父さんを起こしていた。また雨の日に、バス停からの帰り道でメイと五月はお父さんにじゃれつき、それぞれ腕にぶら下がったままお父さんに走ってもらうが、これは数日後の夜中にトトロと会った二人がトトロの胸に抱き付いて空を飛ぶ構図と同じである。五月とメイに対するトトロのありようは、二人とお父さんとの関係を反映したものとなっている。
トトロは、子どもにだけ見えて、いくら近くにいてもお父さんとは最後まで関わることがない。これは逆に言えば、子どもたちにとってトトロとお父さんはいわば表裏一体になっているということでもあろう。この意味で、バス停で五月が差し出した傘を、トトロがお父さんの代わりに持って行ってしまう点が興味深い(カンタが五月に傘を貸したように、作品内で傘の提供は相手への愛情表現を象徴している)。バス停のトトロは、五月とメイにとって帰りの遅いお父さんの代替として明確に機能しているのである。子どもたちは、現実世界(お父さん)を投影させつつファンタジー(トトロ)の世界に遊んでいるのだと言い換えることもできよう。そういった解釈が可能となるほど、物語世界内の子どもの認識と大人の認識は断絶しているのである。
上記のようにトトロ実在のヒントは物語世界内では大人に対して示されていないし、明らかな証拠であるトトロからもらった葉っぱの包みも、それを開いて木の実が出てきた場にお父さんはいなかった。バス停で傘がなくなったことも、お父さんの到着時には雨が止んでしまったので大して問題とはならず、単なるお迎えとして理解されたことだろう。マックロクロスケやネコバスも近くにいるはずなのに見えていないことから、お父さんをはじめとする大人たちは、ファンタジーの世界から完全に隔絶されているのである。こうした子どもたちのファンタジーが作品内での存在感を全く失わないのは、「煤渡り」が「小さい頃には見えた」とする冒頭のおばあさんの話が伏線として強く作用しているからでもある。
しかしながら作品のクライマックスでは、お母さんが松の木の枝の五月とメイの気配にそれとなく気づき、「おかあさんへ」と刻まれたトウモロコシをお父さんが実際に手にすることで、子どものファンタジーに大人もわずかながら交わることになる。そして、その時点で物語は終わる。引っ越し先がお化け屋敷であることを話したり、トトロとの出会いを手紙に書いたりと、五月とメイにとってトトロは入院中のお母さんを慰め喜ばせる要素として機能していた。お母さんの治癒と退院によって、トトロはその役割を終えたのである。
2016年6月15日水曜日
となりのトトロ考
2016年2月8日月曜日
レビュー:「おかあさんの木」(映画、2015年)
先日機内で鑑賞したのだが、妙に後味が悪かったのでその理由を考えてみたい。
この映画は、7人の息子全員を戦争で失った母の物語である。母は息子が出征する度に、畑に1本ずつ桐の木を植え、声掛けをしながら育てていく。戦死した息子には遺骨がなく、他の息子たちも安否がほとんどわからないため、少しずつ成長していく桐の木は母にとって息子たちの形見ともいうべき存在となっていった。戦後になっても結局誰も戻らず、母は木の根元で息を引き取って物語は終わる(最後に五男の五郎が戻ってくるが、母は既に息絶えていた)。
この物語の内容は、結局のところ、上記のようなあらすじ以上でも以下でもない。これだけなら2時間の映画にするまでもないだろう、というのが正直な感想である。物語を推進するエンジンは桐の木を植えたという事実しかなく、他に見どころがないのである。子沢山が普通であった当時でも、7人兄弟が全員出征というのはかなり珍しいケースであったと思うが、全ての息子を戦争で失った家庭はいくらでもあったはずである。そのため、息子を失った母親の悲しみというだけでは心に響きようがない。
この映画が、現在の時点から過去を語る枠物語である点には注目してみてもよいと思う。 この作品は、冒頭で役人の2人組が田舎に生えている立派な桐の林を訪れ、地主に会いに行ってその林ができた経緯を聞くという設定となっている。母と息子の物語は老人ホームに住む認知症気味の地主(五郎の妻サユリ)の語る話として始まり、作品中で折に触れて暖炉の前で昔を語るサユリの姿が強調されるため、物語自体がサユリの語りであると繰り返しリマインドされることになる。しかし、サユリの話の結論は「(こういう経緯があったから)あの木を切ってはならん」というものであり、話を聞いていた2人組がそれをどう捉え、結局木はどうなるかということもよくわからないまま映画は終わる。
つまり、作品中に、過去の次元(戦時中)と現在の次元(地主の話を聞く役人)の2つが出されているのに、両者の接点が意味ある形で示されないのである。サユリが語る母と息子の物語を聞いた2人組が、今後どうするのか(整備事業計画を変更するのか、それとも地主を説得して事業を進めていくのか) が気になるところである。そこが描かれていれば、おそらくこの物語のもうひとつの見どころとなり得たのではないかと思われるが、それが描かれないのであれば、この作品をわざわざ枠物語としたこと、そしてその事実が作品中で何度も繰り返し強調されたことの意味がよくわからなくなる。サユリの語りであることにつき頻繁なリマインドがあっただけに、伏線が回収されずに終わったという印象が強く残った(枠物語であることでかろうじて事後的に得られる情報は、サユリが復員した五郎と結婚したことや、五郎は十年前に亡くなっているといった、断片的な事実だけである)。
また、兄弟の中でも一番元気な二郎については召集兵から士官に昇進するなど、北支の戦地でのシーンも挿入される。現地で知り合った料理屋の給仕係との淡い恋や、あやうく狙撃されそうになった場面についても紹介されるが、ただそれだけである。これらのエピソードは、その後の物語の中でさらに展開したり他の要素と連携したりしていかないので、結局何(のためのエピソード紹介)だったんだろうと思わざるを得ない。料理屋は知らぬ間に閉鎖され、二郎が狙撃されるシーンでは一般人が巻き添えで死ぬが、これをもってささやかながら戦争の悲惨さを描いたと言いたいわけではないだろう。しかし、残念ながら他に理由が思い付かない。わからないことだらけである。
こういう構成面で不明点が多い映画は、撮り下ろしではなく、何らかの原作がある場合がほとんどである(つまり、原作に負けているのである)。調べてみたら、小学校の教科書にも載っていた作品なようである。原作では、唯一戻って来た五郎はビルマからの帰還兵だったようである。映画では、五郎は(北支から転進したのであろう)二郎と一緒に南方の島にいたことになっているから、この改変は上記の二郎のエピソードを成立させるものであったのかもしれない(帰って来なかった二郎の戦地での話は、帰還した五郎が二郎から直接聞いたことにしないとその妻であるサユリが語れない)。しかし、二郎のエピソードについては、そこまでして挿入しなければならないエピソードだったのかどうか、上述のとおり甚だ疑問である。
文句ばかりでもよくないのでよかった点も挙げると、(原作は読んでいないので知らないが)映画の中で7人兄弟の父が郵便局員(で一郎や五郎がそれを引き継ぐ)という設定は、成功しているのではないだろうか。電報や書簡を扱い、当時の末端の情報処理の中心であった郵便局は、戦地からの知らせに一喜一憂せざるを得ない留守家族を描くにはちょうどよい場であっただろう。
また、父が郵便局員で、母が文盲であるというコントラストもよい。冒頭、父が母にラブレターを書き、自分で母に届けて自分で代読するという場面が両者の馴れ初めとして紹介される。来た手紙の内容を母が誰かに読んでもらうという場面はその後も何度かあり、母は読めない文章の内容を「代読」してもらって自分のものとしていた。その構図は、(文字を知らない母は返信を書き得ないことから、)会えない息子たちの面影を「代理」としての桐の木に重ねて話しかけるという形で繰り返されていくことになる。他者の代読による音声化を通じて間接的にしか文字情報を受け取れなかった母は、文字を媒介させずに代理としての桐の木を通じて間接的に語りかけることでしか、息子たちとの対話を成立させられなかったのである。
また来いよ。じゃあな。