2018年9月17日月曜日

おとなの制服

 10年振りに日本に戻ってきた。満員電車での通勤が始まっている。先日は、駅のプラットフォームでの整列乗車のルールを知らなかったので、朝から知らないおじさんとおばさんに怒られつつも、(最寄駅が始発駅ということもあって)並ぶこと15分でようやく電車に乗り込み、座席を確保できた。満員電車内の座席とは、厳格なルールを遵守して辛抱と忍耐の上でようやく獲得できる、頑張った大人がもらえるささやかな賞品なのだ。扉が開いて周囲の皆が我先に座席に殺到すると、同じように整列している自分も殺到しなければならないような気持ちになるから不思議である。プラットホームで近くに立った人は電車内の有利な場所をめぐる争奪戦のライバルなので、決して油断ならない。1週間もすると、自分が駅に到着した時間と座席を狙える電車の関係がわかってきた。時刻表は頭に叩き込んである。よし、今日はぎりぎり後々発の急行に乗れそうだぞ。あの柱の脇の人の少ない列に並べばきっと座れる。

 先日の夕刻、疲れているのか酔っぱらっているのかわからないが、混み合う車内で立ったまま眠っている青年がいた。つり革を握ったままでうとうとしているのでさすがにふらふらして、そのうち寝ながら後ろの人にぶつかった。後ろのおじさんは青年に肘鉄砲を食らわせて相応の不快感を表明したが、おじさんが無言かつ振り返りもせずにやや暴力的な対応をしたことに驚いた。朝夕の駅のみならずその車内も、殺伐として緊張感を強いられる、厳におとなの世界なのである。

 乳母車のお母さんや、ランドセルの小学生たちがこの争奪戦に参加しているのを見たことがないし、途中でもほとんど乗り込んでこない。彼らは座席に殺到する社会人によって自分たちが弾き飛ばされる姿が予見できるので、乗りたくても乗れないのだろう。乗り込んでも座席は賞品だから譲る人がいるとはとても思えないし、隣の人にぶつかって無闇に肘鉄砲を食らっては堪らない。なんと正しい選択であろうか。こんな世界には入ってこない方がよいに決まっている。

ようやく目的の駅に着いて地上に出ると、社会人たちの群れはそれぞれの職場に急ぎ足で向かった。私も慌ててその後を追う。殺伐とした電車を降りたばかりの身からすると、地上はさすがに開放感があるが、赤信号で横断歩道のあちら側とこちら側で対峙する社会人たちが、さながら相対する敵同士のようにも見えた。

 そのイメージは、おそらく社会人たちの服装にも原因があるかもしれない。信号を待っている間によく見てみると、クールビズでノーネクタイの男性のほぼ9割が、黒あるいは紺のスラックスに白無地の半袖シャツという恰好であることに気づいて驚いた。私が今朝最寄駅近くの路上ですれ違った中高生の集団も、全く同じ服装をしていたからである。中高生は学校指定の制服を着なければならないのでまだわかるが、服装について誰からも強制されていないはずの社会人がなぜわざわざ中高生と同じ恰好をしているのだろうか。茶色のスラックスや縞模様のシャツなどには滅多にお目にかかれない。

 生徒たちの制服はもともと軍服が起源であることからすると、こうしたおとなの「制服」は、経営陣にしてみれば自社の兵隊を一般人と外見上区別できて把握や指示がしやすいだろうし、着ている者たち同士では集団としての意識を高めることにもなり、何かと便利なのではないだろうか。問題は、なぜその制服をおとなたちが自ら選択して纏っているのかという点であるが、多くの社会人が飲み会で「とりあえずビールでいいよね」とか言って注文さえも皆が同一であることを好むのであるから、自分が隣の同僚たちと同じ服装なり注文であることにむしろ安心しこそすれ、違和感は感じていないのだろう。社会生活におけるこうした同調圧力が意識されていないのは、おそらく何年も毎日制服を着て過ごした少年時代の記憶が大きく影響しているのではないだろうか。

 大都市の社会人たちは、皆同じ服装で身づくろいをし、朝は満員電車の座席争奪戦に参加し、昼間はオフィスで働いて、夜の居酒屋ではまずビールを飲んでいるのだ。通勤電車での整列乗車や座席の確保のルールは、それに参加できない層を周縁化するものだった。職場で皆と違う服装をする者や飲み会で最初にウィスキーを頼む者は、次第に仲間外れにされていってしまうのだろうか。そういえば私が帰国する前に住んでいた国の人たちは、職場にラフな格好で来ていて、スーツ姿の人はほとんどいなかったな。

 歩きながらぼんやりこのようなことを考えているうちに、職場に到着した。入口のガラス戸に映った自分は、紺のスラックスに白無地のシャツを着ていた。

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また来いよ。じゃあな。