2007年8月18日土曜日

ドラゴンクエスト私論

現在、ドラゴンクエスト7をプレイ中。古いね。

しかし、長いよなあ。今レベルは20前半。既にもうなんだかだれてきた。
現在と過去を行ったり来たりで疲れるし、都市の名前や場所なんかいちいち覚えとれんよ。

先に進むために集めなければならない石版のかけらの取りこぼしがあった場合には、その場所まで戻らなきゃならない。しかし石版は必要な順番で集めるわけではないから、マップが広すぎてどこで取り忘れたのかすらわからなくなる。だから攻略サイトの情報がなければ先に進めない。今はネットがあるからすぐに調べ がつくけど、リアルタイムでやってた人たちは相当ストレスが溜まったに違いねーわ。

ぶつぶつ言いながらやっているからか、いろいろなところが嫌になってきた。

まずはシステム。
経験値と連動して上昇する「レベル」以外に、戦闘回数と連動している「ジョブ」とそのスキルが設定されている。これはドラクエ4だか5から導入されている ものだと思う。しかし戦士や魔法使いならともかく、船乗り、吟遊詩人、羊飼いといった職を持つ人間がモンスターとの戦闘を重ねるごとにその技術を磨いていくというのはおかしくねーか?ここまでくると、総花的すぎて何がなんだかわけがわからんよ。

それから、このドラクエ7ではストーリーの関係上、全滅を余儀なくさせられる場面が何度かある。プレイヤーのパーティが全滅すれば通常はゲームオーバーと なり、最後にデータを保存した地点まで戻される上に、所持金を減らされる等のペナルティを受けて再度挑戦することができることになっている。しかしストーリー上全滅してしまわざるを得ない場面では、全滅した後ゲームオーバーの画面に切り替わらず、そこに誰かがやってきてパーティ全員を復活させてしまうとい うようなことが起こるのである。

ドラクエシリーズでは伝統的に生死の境界が甘く、複数のメンバーでパーティを組めるようになったドラクエ2以降、敵・味方双方が戦闘中に死亡した仲間を呪 文等を使って復活させることができることになった。しかし全滅すれば誰も復活させてくれる人がいなくなるので、ゲームオーバーとなるのである。つまり、個人の生死は甘いが、パーティ全体の生死についてはシビアなのがこういったゲームの特徴だと言えるだろう。これによって、「苦労の末に大魔王を倒したけれど、呪文で再度復活させられてしまうのではないだろうか?」という根本的な疑問を私たちはかろうじて抱かずに済んできたのだ。私たちは戦闘で彼らを「全 滅」させたのであり、それは相手にとってのゲームオーバーを意味するからである。

ところが、前述のように全滅してもパーティ構成員以外の他の誰かによって復活が許されてしまうと、そのとたんにこれまでの論理が崩れてしまう。つまり、大魔王を倒して祝杯を挙げている時に、大魔王の手下がこっそりやってきて、死体に呪文をかけて復活させてしまうという可能性に怯えなければならなくなるのである。倒した魔王が次々と復活させられたら、ゲームはもぐらたたきの様相を呈し、いつまで経っても終わらない。くだらん話だけれども、そのようなゲーム内 の矛盾の可能性の芽は、初めから摘んでおかないといかんのじゃねーだろうか。それとも、所詮ゲームなど子ども向けであって、こんなことでぶつぶつ言ってる 私は、そろそろゲームを卒業しなければならない年齢なのかもしれない(悲)。


それはともかく、一番の問題は教会だろうと思う。
教会で毒の治療や死者の復活ができるというのはわからなくはないが、どこに行っても教会があるというのはおかしくねーか?ドラクエ3ではまさにマップが日本や各大陸を配した世界地図だったが、このドラクエ7もどうやらそれに準じているらしい。中心部が日本くさいことに加え、エジプトのスフィンクスがあった り、ファラオや南米の原住民らしき人たちが住む場所がそれ相応の所にある。このドラクエ7では、エジプトとおぼしき女性ファラオがいる城の地下に十字架の お墓があるのだから驚くよ。このゲームでは、どうやら

宗教 → キリスト教
墓地 → 十字架(これもキリスト教)
人間 → 白人

という原則があるらしい。それ自体はどーでもいいが、マップが世界地図を模している以上、キリスト教の要素を他の地域にまで敷衍させて配置することの政治性を常識としてわきまえる必要がある。現代思想では批判の対象となってきた「白人、男性、キリスト教」という3点セットとパラレルじゃねーの。今のところこのゲームでは、黒人は登場してきていない。

よくRPGは、指輪物語やD&Dといった西洋起源のものだなどと言われるが、今のゲームは日本が一番活発に作ってるんじゃねーのかねえ。そろそろ旧弊墨守もいい加減にした方がよいだろう。日本の国際感覚のなさ(アメリカ一辺倒)が、こういうゲームにおいてきわめて明瞭に表われていることが恥ずかしい。アメリカが強固な宗教国家であることに日本人はどれほど自覚的なのだろう。

現在ハードではWiiとPS3、Xbox360が覇権を争い、ソフトの売り上げも日本・北米・欧州がほとんだと思うが、ゲームに限らずこれからの市場はア ジアに傾斜していくはずだ。日本はこれからゲームやアニメ、漫画を日本文化として積極的に海外に向けて発信しようとしているのだから、なおさら世界全体を 見据えたコンテンツ作りが必要になる。宗教観の欠如と無知は、その時にかなり足を引っ張ることになるだろう。どんなに面白くても、イスラーム圏向けにこの内容では商売にならない。とはいえ、私もエミュレータでプレイしているんだから偉そうなことは言えませんな。

朝青龍はどうなっちゃうの?

朝青龍に関して意見が割れている。
ひとつは相撲を馬鹿にしていると憤り、辞めてしまえというもの。
もうひとつはそもそも初めの医師の診断がおかしいのだから、朝青龍はむしろ被害者だというもの。
サッカーがチャリティーであったことも事態をよくわからなくしている。

詳細な情報を知りようがないのだから、私もよくわからん。
下手にいい加減なことを言っとっては、バッシング騒動に巻き込まれてしまう。

その中でも私のような素人にわかりにくいのが、なぜ記者会見を開かなきゃいけないのかという点だ。謝罪のコメントは協会を通じてもう出しているのだから、さらに会見する意味あんのかね。マスコミによる会見の基準みたいなのが何かあるのだろうか?

腰骨に問題がなかったのは、サッカーの映像を見れば素人目にも明らか。これについてはニュースで専門家もコメントしているのだから間違いない(特にゴール前で体を捻ってヘディングし、体が横になって倒れたのにすぐ笑顔で起き上がった場面がそうらしい)。

だから最初に診断した医師にもやはり責任があるし、実際は元気なのにその診断書を協会に提出した朝青龍にも責任がある。この意味で、朝青龍は被害者だとい うふたつめの意見にはやはり賛同しかねる部分があると言わざるを得ないね。しかし、だからと言って、記者会見しなきゃならんというのもよくわからん。なぜ 高砂親方は会見会見などと言うのだろう。まずは協会の理事会にでも出頭して親方たちに謝罪したらいいじゃねーの。マスコミにはFAXでも流しておけばい い。

この件に関しては、最近フィギュアスケートの織田信成選手が飲酒運転で捕まり、涙で会見したことがよく引き合いに出される。しかし道路交通法違反で明確な 犯罪行為をした織田選手と、朝青龍のしたことは比較にならんのではないか。誰に迷惑をかけたわけでもないのだから。迷惑をかけたとすれば夏巡業で横綱の一人を見られないファンに対してだが、協会があわてて帰国した朝青龍の巡業参加を拒否して謹慎処分を科している以上、朝青龍だけの責任にはできない。他には 大相撲の評判に泥を塗ったという意味で、日本相撲協会にも迷惑をかけている。しかしそれは高砂部屋の師弟関係および協会内の問題であって、会見を開いて世 間にどうこうすることではない。まして、こんなことで相撲を辞める必然性などないと言いたい。

ちょっとしたいじめの様相を帯びている傾向はあると思う。


しかし興味深いのは、あれほど土俵でふてぶてしい態度の朝青龍が、実は繊細で傷つきやすい性格だということの方ではないだろうか。北の湖理事長が朝青龍を 当初あまり刺激しなかったのは、その性格を知ってのことだったようだ(報道で本人がそう言っている映像を見た)。このような意味では、朝青龍もまだ幼く青 かった(年齢からすれば当然)のであって、若くして最高位を勤める者の苦しさなのだろうと思う。

そういえば貴乃花(現貴乃花親方)も横綱時代は無口で閉じこもっているような感じを受けたものだ。実はそういう苦しむ横綱の方が、大成して大横綱になるの だろう。二子山部屋の騒動の時、場所前に「部屋のためにもがんばります」と言った兄の若乃花と、「自分の相撲を取るだけです」と言った弟の貴乃花の対照的 な受け答えにそれぞれの性格が出ていると思ったものだが、どちらが偉大であったかは言うまでもない。何事もそつなくこなせてしまえる人間は求道者には向いていないし、見ていてもつまらねーですな。


また来いよ。じゃあな。