2007年9月3日月曜日

閣僚の政治資金不正受給問題

先の参議院選挙前および後で、新旧閣僚による政治資金疑惑に注目が集まっている。利害関係のある団体からの献金をはじめ、水増し請求や、同一領収書のコピー添付、議員会館内の無料のはずの事務所費が数億円計上されるなど、不明朗な会計が原因である。説明に窮して自殺した大臣がいるのだから本当に情けない。

また内閣改造前に、入閣希望の議員は政治資金報告書の訂正を相次いでしている。官邸側も「身体検査」と称して「政治とカネ」の問題をチェックすることをきわめて重要視しているようで、金銭的なクリーンさは入閣者の資格試験のようだ。

一連の不祥事に懲りたのか、「1円からの領収書添付」を必要にするという法案提出の準備が進んでいると報道されている。実際に法文化するかどうかはわからないが、きわめて当然のことであるとしか言えない。今回の騒動で、国会議員の政治資金報告書では領収証の原本ではなくコピーを提出するだけで済んでいたという事実に驚いた人が多かったのではないだろうか。私もその一人である。コピーでいいなら不正をしてくれと言っているようなものである。しかもそれらのチェックがきわめて甘かったということが明るみに出た。それだけでも、騒動の価値はあったと思う。

ところで、いまひとつよくわからないのは、なぜ不正な政治資金の使用が指摘された大臣その他が閣僚や国家機関および党の役職を辞任するのかということである。大臣や重要ポストで働く資格がないというのは当然であるが、国会議員の資格だってないではないか。議員辞職をするべきであろう。政治資金を不正に利用していたことが発覚したのに、閣僚ポストを辞すだけで議員としての政治生命は続き、政治資金を引き続き利用できる立場にあるのは明らかにおかしい。特権を持つ国会議員を追及できるのは国会議員だけである。お互いに脛に傷を持つから、結局なあなあで済んでしまうのだろうか。あきれた話である。

2007年9月2日日曜日

ミヨリの森はなぜつまらないか

アニメ『ミヨリの森』を見た。一言で言うとびっくり。話としては、都会からきた転校生の女の子が森の守り神に選ばれ、森の精霊たちとともにダム建設を推進しようとする開発業者を退治するというもの。

しかし、どうしてあそこまであからさまに道徳的なのか。勧善懲悪かつ予定調和であるということは、逆に言えば薄っぺらでつまらないということだ。同様に自然がテーマとなっているアニメの『となりのトトロ』や『もののけ姫』と比べるべくもない。トトロがいかにすばらしいかがよくわかった。やはり宮崎はすごい。

都会から来た転校生が田舎の自然環境の価値や保護に目覚めるという構図は、例えば去年やっていたドラマ『瑠璃の島』などでもおなじみだ。このドラマは、両親の離婚問題から沖縄の島の祖父母のもとで過ごすことになった生意気な小学生の女の子が、島の大自然の中で友達や住人と過ごしていくうちに少しずつ人間的な成長を遂げていくというものである。田舎の人間関係や自然の価値を知らない都会の子(つまり私たち=現代人)が、純朴な田舎の人たちや貴重な自然という環境のもとで忘れていたものを獲得するという筋立ては、環境保護がほとんど流行語的に叫ばれている現代において、かなりありきたりで陳腐なプロットでしかない。

余談だが、『ミヨリの森』と『瑠璃の島』はかなり類似していると言わざるを得ない。主人公はどちらも小学生の女の子であり、現代風のすれた感じの性格である。両親の関係が悪くなり、田舎の祖父母に預けられる部分も同じ。その母親は娘に似てわがままで頼りなく、しばしば田舎に顔を見せて娘を都会に呼び戻そうとするが成長した娘に諭され、拒否される。ここでの母親はかつて都会で生活していた女の子の鏡像である。女の子が自己の成長を自覚するためには、母親が呼び戻しに来る仕掛け(=過去の自分との対面)がどうしても必要なのである。

『ミヨリの森』を『となりのトトロ』(や『瑠璃の島』)と比較する際にどうしても考えなければならないのは、性別の果たす役割である。基本的にどれも主人公は女性であり、他のキーパーソンも女性であることに注意を払うべきだろう。男性の影はきわめて薄い。ミヨリでは一本桜の精が女性であったように、大自然は女性で表象されている。つまり自然は温かく人間を迎え入れる母性として描かれているのである。一方ふわふわで優しい感じのトトロも自然の表象である。その性別は不明であるが、顔つきやしぐさなどからして男性性を濃厚に保持していると言えるだろう。

この差が、両作品の自然観の差となって現われている。ミヨリの自然は雷で裂けた一本桜に象徴されるように、不完全なもの、または弱き者(ダム計画を前になす術がない)として描かれ、それを回復するのが主人公のミヨリである。それに対し、トトロの自然は不可知で怖いもの(マックロクロスケ・夜中の大風)、圧倒的で近寄りがたいもの(ご神木)、死と近いもの(メイの溺死疑惑)として描かれる。母をお見舞いに行った不在の父に代わってメイの捜索を手伝うトトロは、ミヨリの自然とは逆に人間に手を差し伸べ父性を回復する役割を果たしている。自然は「父の審級」にあり、サツキとメイはその自然の男性性を快く受け入れるのである。

結局、ミヨリが物足りないのは、そもそも自然を保護すべき弱いものとしか表象していないその描写の矮小性にあると言えるだろう。自然に対して人間が主導的な立場に立っていると言い換えることもできる。さらに、本来見えないはずの精霊たちが姿を現わし、業者たちを退治するというそのわかりやすさ(=単純さ)にも原因がありそうだ。

自然としてのマックロクロスケやトトロは子どもの前でしかその姿を現わさず、最後まで大人たちの世界とは断絶していた。しかもその子どもとトトロとの邂逅も実は夢か現かわからないというように、自然は不可知であり決して操縦可能ではないことが慎重に示されてもいた。太鼓や投げ縄で実際に精霊たちを呼び出し、直接指示を与え得るミヨリの世界とは対照的である。つまり、トトロにおける対立軸は子ども/大人であって、硬軟併せ持つ自然の懐の深さを子どもの目を通して描き出していたが、ミヨリにおいては対立軸は飽くまでも自然/都会なのである。そのため、自然の描写が直接的で、都会とのわかりやすい対立軸としてきわめて単純化・陳腐化されてしまっている。自然に対する畏怖の念や圧倒的な存在感は、最後まで描かれることがない。

さらに言えば、都会の側から資本による開発を糾弾するだけでは何も解決しない。長野県の脱「脱ダム宣言」に明らかなように、ダム建設は治水事業であり、都会の生活を洪水や渇水から守るという大義名分があるからだ。仮にミヨリがダム建設を断念させ自分の森を守ったとしても、その結果都市生活に支障を来たすとするとどうなるのか。そのリスクを都市住民がどのように受け取り、どのように消化していかなくてはならないのか。他の森がダム湖に沈むことになってもよいのか。すぐに想起されるこのような疑問に全く答えないまま、ただただ開発はだめだ森を守れと言ってもそれは片手落ちであろう。このような底の浅さがこのアニメをきわめてつまらなくしてしまっている。私が気に入ったのはボクリコのかわいい声だけであった。

2007年8月18日土曜日

ドラゴンクエスト私論

現在、ドラゴンクエスト7をプレイ中。古いね。

しかし、長いよなあ。今レベルは20前半。既にもうなんだかだれてきた。
現在と過去を行ったり来たりで疲れるし、都市の名前や場所なんかいちいち覚えとれんよ。

先に進むために集めなければならない石版のかけらの取りこぼしがあった場合には、その場所まで戻らなきゃならない。しかし石版は必要な順番で集めるわけではないから、マップが広すぎてどこで取り忘れたのかすらわからなくなる。だから攻略サイトの情報がなければ先に進めない。今はネットがあるからすぐに調べ がつくけど、リアルタイムでやってた人たちは相当ストレスが溜まったに違いねーわ。

ぶつぶつ言いながらやっているからか、いろいろなところが嫌になってきた。

まずはシステム。
経験値と連動して上昇する「レベル」以外に、戦闘回数と連動している「ジョブ」とそのスキルが設定されている。これはドラクエ4だか5から導入されている ものだと思う。しかし戦士や魔法使いならともかく、船乗り、吟遊詩人、羊飼いといった職を持つ人間がモンスターとの戦闘を重ねるごとにその技術を磨いていくというのはおかしくねーか?ここまでくると、総花的すぎて何がなんだかわけがわからんよ。

それから、このドラクエ7ではストーリーの関係上、全滅を余儀なくさせられる場面が何度かある。プレイヤーのパーティが全滅すれば通常はゲームオーバーと なり、最後にデータを保存した地点まで戻される上に、所持金を減らされる等のペナルティを受けて再度挑戦することができることになっている。しかしストーリー上全滅してしまわざるを得ない場面では、全滅した後ゲームオーバーの画面に切り替わらず、そこに誰かがやってきてパーティ全員を復活させてしまうとい うようなことが起こるのである。

ドラクエシリーズでは伝統的に生死の境界が甘く、複数のメンバーでパーティを組めるようになったドラクエ2以降、敵・味方双方が戦闘中に死亡した仲間を呪 文等を使って復活させることができることになった。しかし全滅すれば誰も復活させてくれる人がいなくなるので、ゲームオーバーとなるのである。つまり、個人の生死は甘いが、パーティ全体の生死についてはシビアなのがこういったゲームの特徴だと言えるだろう。これによって、「苦労の末に大魔王を倒したけれど、呪文で再度復活させられてしまうのではないだろうか?」という根本的な疑問を私たちはかろうじて抱かずに済んできたのだ。私たちは戦闘で彼らを「全 滅」させたのであり、それは相手にとってのゲームオーバーを意味するからである。

ところが、前述のように全滅してもパーティ構成員以外の他の誰かによって復活が許されてしまうと、そのとたんにこれまでの論理が崩れてしまう。つまり、大魔王を倒して祝杯を挙げている時に、大魔王の手下がこっそりやってきて、死体に呪文をかけて復活させてしまうという可能性に怯えなければならなくなるのである。倒した魔王が次々と復活させられたら、ゲームはもぐらたたきの様相を呈し、いつまで経っても終わらない。くだらん話だけれども、そのようなゲーム内 の矛盾の可能性の芽は、初めから摘んでおかないといかんのじゃねーだろうか。それとも、所詮ゲームなど子ども向けであって、こんなことでぶつぶつ言ってる 私は、そろそろゲームを卒業しなければならない年齢なのかもしれない(悲)。


それはともかく、一番の問題は教会だろうと思う。
教会で毒の治療や死者の復活ができるというのはわからなくはないが、どこに行っても教会があるというのはおかしくねーか?ドラクエ3ではまさにマップが日本や各大陸を配した世界地図だったが、このドラクエ7もどうやらそれに準じているらしい。中心部が日本くさいことに加え、エジプトのスフィンクスがあった り、ファラオや南米の原住民らしき人たちが住む場所がそれ相応の所にある。このドラクエ7では、エジプトとおぼしき女性ファラオがいる城の地下に十字架の お墓があるのだから驚くよ。このゲームでは、どうやら

宗教 → キリスト教
墓地 → 十字架(これもキリスト教)
人間 → 白人

という原則があるらしい。それ自体はどーでもいいが、マップが世界地図を模している以上、キリスト教の要素を他の地域にまで敷衍させて配置することの政治性を常識としてわきまえる必要がある。現代思想では批判の対象となってきた「白人、男性、キリスト教」という3点セットとパラレルじゃねーの。今のところこのゲームでは、黒人は登場してきていない。

よくRPGは、指輪物語やD&Dといった西洋起源のものだなどと言われるが、今のゲームは日本が一番活発に作ってるんじゃねーのかねえ。そろそろ旧弊墨守もいい加減にした方がよいだろう。日本の国際感覚のなさ(アメリカ一辺倒)が、こういうゲームにおいてきわめて明瞭に表われていることが恥ずかしい。アメリカが強固な宗教国家であることに日本人はどれほど自覚的なのだろう。

現在ハードではWiiとPS3、Xbox360が覇権を争い、ソフトの売り上げも日本・北米・欧州がほとんだと思うが、ゲームに限らずこれからの市場はア ジアに傾斜していくはずだ。日本はこれからゲームやアニメ、漫画を日本文化として積極的に海外に向けて発信しようとしているのだから、なおさら世界全体を 見据えたコンテンツ作りが必要になる。宗教観の欠如と無知は、その時にかなり足を引っ張ることになるだろう。どんなに面白くても、イスラーム圏向けにこの内容では商売にならない。とはいえ、私もエミュレータでプレイしているんだから偉そうなことは言えませんな。

朝青龍はどうなっちゃうの?

朝青龍に関して意見が割れている。
ひとつは相撲を馬鹿にしていると憤り、辞めてしまえというもの。
もうひとつはそもそも初めの医師の診断がおかしいのだから、朝青龍はむしろ被害者だというもの。
サッカーがチャリティーであったことも事態をよくわからなくしている。

詳細な情報を知りようがないのだから、私もよくわからん。
下手にいい加減なことを言っとっては、バッシング騒動に巻き込まれてしまう。

その中でも私のような素人にわかりにくいのが、なぜ記者会見を開かなきゃいけないのかという点だ。謝罪のコメントは協会を通じてもう出しているのだから、さらに会見する意味あんのかね。マスコミによる会見の基準みたいなのが何かあるのだろうか?

腰骨に問題がなかったのは、サッカーの映像を見れば素人目にも明らか。これについてはニュースで専門家もコメントしているのだから間違いない(特にゴール前で体を捻ってヘディングし、体が横になって倒れたのにすぐ笑顔で起き上がった場面がそうらしい)。

だから最初に診断した医師にもやはり責任があるし、実際は元気なのにその診断書を協会に提出した朝青龍にも責任がある。この意味で、朝青龍は被害者だとい うふたつめの意見にはやはり賛同しかねる部分があると言わざるを得ないね。しかし、だからと言って、記者会見しなきゃならんというのもよくわからん。なぜ 高砂親方は会見会見などと言うのだろう。まずは協会の理事会にでも出頭して親方たちに謝罪したらいいじゃねーの。マスコミにはFAXでも流しておけばい い。

この件に関しては、最近フィギュアスケートの織田信成選手が飲酒運転で捕まり、涙で会見したことがよく引き合いに出される。しかし道路交通法違反で明確な 犯罪行為をした織田選手と、朝青龍のしたことは比較にならんのではないか。誰に迷惑をかけたわけでもないのだから。迷惑をかけたとすれば夏巡業で横綱の一人を見られないファンに対してだが、協会があわてて帰国した朝青龍の巡業参加を拒否して謹慎処分を科している以上、朝青龍だけの責任にはできない。他には 大相撲の評判に泥を塗ったという意味で、日本相撲協会にも迷惑をかけている。しかしそれは高砂部屋の師弟関係および協会内の問題であって、会見を開いて世 間にどうこうすることではない。まして、こんなことで相撲を辞める必然性などないと言いたい。

ちょっとしたいじめの様相を帯びている傾向はあると思う。


しかし興味深いのは、あれほど土俵でふてぶてしい態度の朝青龍が、実は繊細で傷つきやすい性格だということの方ではないだろうか。北の湖理事長が朝青龍を 当初あまり刺激しなかったのは、その性格を知ってのことだったようだ(報道で本人がそう言っている映像を見た)。このような意味では、朝青龍もまだ幼く青 かった(年齢からすれば当然)のであって、若くして最高位を勤める者の苦しさなのだろうと思う。

そういえば貴乃花(現貴乃花親方)も横綱時代は無口で閉じこもっているような感じを受けたものだ。実はそういう苦しむ横綱の方が、大成して大横綱になるの だろう。二子山部屋の騒動の時、場所前に「部屋のためにもがんばります」と言った兄の若乃花と、「自分の相撲を取るだけです」と言った弟の貴乃花の対照的 な受け答えにそれぞれの性格が出ていると思ったものだが、どちらが偉大であったかは言うまでもない。何事もそつなくこなせてしまえる人間は求道者には向いていないし、見ていてもつまらねーですな。


また来いよ。じゃあな。